18年前に多伎町在住の方から寄贈された長柱状の霰石 (産地:不詳 長柱状の結晶が放射状に集合している)
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16年前にS館から寄贈された長柱状の霰石 (産地:大田市長久町 長柱状の結晶が束状に集合している)
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18年前に多伎町在住の方が来館され、河川の工事中に付近で見つけられたという径が40センチもある白っぽい丸みのある岩塊を持って来られたことがありました。 岩塊の摩耗された表面にはヘキ開が顕著なガラス光沢の鉱物がたくさん見られたので、おそらく方解石だろうと思って希塩酸を浸してみるとさかんに発泡して溶けたので、当初この岩塊は方解石が主体のものだと思いました。 しかし、その数日後、あらためてその岩塊の表面を注視してみると、長さが8センチくらいの長柱状で柱の方向にヘキ開の平坦面をみせている鉱物が数本、放射状ぎみに集まっている部分があるのに気づき、この岩塊を割ってみれば放射状の様子がもっとよくわかるだろうと思って大ハンマーで細かく割ってみると、長柱状の結晶同士が放射状に集まっている様子がはっきりと確認できました。 さらに、へき開の様子も方解石とは異なり、長柱状結晶の柱の方向を直交ないしは斜交して切る方向にはへき開はみられず、この方向の断面は貝殻断口になっていることがわかりました。 方解石と同じ炭酸塩鉱物で柱状方向にしかへき開が発達していない鉱物は、、、、ということで霰石が候補に上がり、方解石との違いを確認するためにマイゲン反応の有無をみたところ、紫色になることを確認しました。
さらに自分以外の人からも確認してもらうために、当時一般からの鉱物鑑定の依頼を受け入れている京都のM館へ資料を送って肉眼鑑定をしてもらったところ、霰石に間違いないとの返答をいただいた。
この霰石を寄贈してもらった多伎町在住の方(名前は不明)の話では、多伎町内の河川の工事中に付近に転がっていた転石だったそうである。 しかし、その工事現場がどこかは聞き逃してしまい、その後、再びその方は来館されることがなく、具体的な産地が不詳のまま今日に至っています。
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多伎町在住の方から産地不詳の霰石をもらってからほぼ二年ほどして、県内の博物館施設S館のリニューアルに際して当館から差し上げた布志名層産の化石ブロックのお礼として、大田市長久町の造成地工事中に採集されたという繊維石膏に似た鉱物を頂いたことがありました。 その数日後、この鉱物が多伎町の方からもらった霰石と同じ結晶形態の長柱状の霰石と判明し、大変驚くとともに多伎町の方からもらった霰石の産地同定の有力な情報を得ることができました。
右の写真にあるように、S館から二個体の資料をいただきました。 右側の資料を当館に展示し、左側の資料は京都のM館へ寄贈しました。
当初、これらの鉱物は繊維石膏だと言われていましたが、爪で引っ掻いても傷跡ができず方解石くらいの硬度があって、希塩酸を浸してみるとさかんに発泡して溶けたので、資料から鉱物結晶の一部を掻き取ってルーペでへき開の様子を観察してみたところ、多伎町在住の方からもらった霰石と同じように長柱状結晶の柱の方向を切る断面には貝殻断口しか現れてないことがわかり、最後にマイゲン反応で紫色になることを確認して、これも霰石であると断定しました。
多伎町の方から霰石をもらってから二年ぶりの、こんどはちゃんと産地のわかった長柱状霰石との再会でした。 このたびも、自分以外の人からも確認してもらうために、京都のM館へ資料(上の写真の左側の資料)を寄贈品として送って鑑定をしてもらいました。 このたびは肉眼鑑定だけでなく、無料で粉末X線分析までしていただき、分析データが標準値にピッタリ合った理想的な霰石であることもわかりました。 M館の研究員の方の話では、長柱状の霰石でこれほど大きなものは日本産では他に例がない、とのことでした。
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16年前ごろの大田市長久町の国道9号線沿いの風景 →
写真中央に見られる「ジャスコ」というデパートの建物が17年前に建てられたそうですが、それ以前は、ここにはバックにある山と同じくらいの高さの山がありました。 この山を全部崩して平坦にし、ジャスコが建てられたそうです。 18年前に多伎町在住の方から寄贈してもらった霰石は、どこかの川の護岸工事のときに付近に転がっていた転石を採取されたものだそうですが、ジャスコの建物と手前の畑の間には三瓶川が流れており、今から二十数年前に護岸工事が行われています。 もしかして、多伎町在住の方が言われた護岸工事というには、多伎町内ではなく、この三瓶川流域の護岸工事ではなかったかという気がします。 この川に面した山の斜面を掘削するときに、この霰石が付近の川へ転石となって流出したのではないかと思います。
周辺の山の地質は、中新世の時代のラミナが顕著な凝灰岩です。 S館からいただいた霰石は、このジャスコ造成地の工事中に崖を掘削中に採取されたもので、露頭面に脈状に産していたそうです。 霰石結晶の束状の集合体が、束の方向を脈壁にほぼ垂直にして産していたものだと思います。 貫入脈が冷却されていく過程で霰石のへき開が冷却節理となって剥離したため、繊維石膏に似た繊維状の外観になったと思います。
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← 左の文章は、18年前に多伎町在住の方から寄贈してもらった霰石を展示した当初にこれといっしょに使用した解説プレートに記載していたものです。
↓短柱状の霰石(産地:大田市松代鉱山) 島根県の霰石といえば、松代鉱山産のものが有名ですが、この霰石は太めの短柱状の霰石結晶および双晶が放射状に集合しているもので、へき開に沿った割れはあまり顕著ではないです。 あきらかに長久町産の霰石とは結晶形態が異なり、結晶の生成条件が相当違っていると思います。
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