住職日記

住職日記

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癌を告げられた浄光寺門徒のAさん(男性)が、ある日突然私にこう言われた。
     “院家 間に合った”
 
 Aさんは、1昨年4月、体に異変を感じ入院。医師より癌と宣告され、家族には後3ヶ月のいのちと告げられるが、縁あって1年と2ヶ月生きられる。亡くなられる直前までお寺のご法の場に足を運ばれる。癌が頻繁に転移する中の昨年4月、Aさんと二人でお寺の応接間でお茶を飲んでいる時、ポツンとひとこと…。  
    “ご院家、まにあったよ。お寺と縁があって良かった。”

 本人も自覚されていたが、今がわからない、今日のこの日にいのち終わるか
も知れない身を抱えている本人の口から“まにあった”のことば。
 今、この場でいのち終えても間に合っている。たとえどんな苦悩の中にいて
も間に合っている。お念仏の人生は何一つ無駄がない。癌が縁となってAさん
に“間に合った”と言わせている。「わがために なにもかも」である。

  「なにもかも 弥陀のよびごえ 月仰ぐ」 丹詠(故 前住職の俳句)

たとえすべてが私を見放しても、“あなたを見捨てない、あなたを一人にしない”。一人ではかかえきれない苦悩のど真中にいても“そのまま引き受ける”と私のところに至り来て、私を抱きとって下さる働きが、もうすでに私のところに届けられてあった……そのことに気がつかさせてもらった、“間に合った”。

Aさん「わしにも お浄土があろうかなぁ」
       私「おまかせですね」

この対話の2ヵ月後の昨年6月に61歳でご往生された。
 七日参りのお勤めにお参りしたとき、Aさんの経本を開くとこんなメモが残されていた。
    「“こんなはずではなかった”で いのち終わればむなしい」

 “こんなはずではなかった”で終らせしめない働きにであえたのである。間に合ってよかった。
                                     2006年2月21日


まにあった


仏縁がなかったら、お念仏申すことなく、あみださまの願いに気づくことなく、このいのちの行方にであうことなく、一生を終えていく。

毎日“忙しい忙しい”と云いながら、仕事に出かけ夕方家路に着き、“あゝ疲れた”と風呂に入り、好きな酒を一杯飲んで床に就く。又次ぎの日も、同じことを繰り返している内に、一日・二日・三日…、一年・二年・三年と過ぎ、気がついてみたら定年を迎え、70歳、80歳……いつの間にか年を取り、“私の人生って何だったの?こんなはずではなかったのに”と、むなしくそして寂しく死を迎える。

お念仏にであう人生はそんなむなしい人生ではない。この口から一声のお念仏がこぼれるってことは、すごいことだなぁ―と最近しみじみと感ずる。
 他人を責め、愚痴をこぼす。そんな口しか持ち合わせていない同じ私の口からお念仏がこぼれる。とてもお念仏を申すようなものを持ち合わせていないこの口からお念仏が出てくださる。

  才市さんのよろこびに
      風邪をひけば せきがでる
       才市がご法義の風邪をひいた
       念仏のせきが でるでる

風邪をひけば咳が出る。どうして咳が出るのだろう。咳をするのは私の働きではない。風邪の菌が飛び込んできて、ひとり動いて、働いて、私の口をこじあけて、“ゴホンゴホン”と飛び出る。だから、風邪の咳は、菌のひとり働き。

この口から“なんまんだぶつ”とこぼれるのは、仏さまが宿っていてくださるから…、仏さまの願いが私全体に届いていてくださるから…。“あなたの人生むなしく終わらせない”と絶えず働き願ってくださるから…。
 私の口からこぼれるお念仏は、私の力ではなくあみださまのひとり働き。だから、一声のお念仏がこぼれてくださるということは、もうすでにあみださまのお慈悲のど真中…。
  スッポリと弥陀のおんふところに……
      「うららかや われら摂取の み手の中」丹詠(故 前住職の俳句)
                                    2006年2月20日

お念仏にであう人生


私は十年近く前、網膜はく離の手術を受けました。ある日のこと、突然左目の視野が狭くなり病院に行きますと、「絶対安静です。すぐ入院して下さい。」とのこと。
  ほっておくと失明するということで、入院後二日目に手術を受けることになりました。
目の手術ですから、手術されている目を通してすべてのものが見えます。手術中のメスや、
針で切り口を縫っていく様子も見えます。

      不安な気持ちでいる私の目に、時折看護婦さんのあたたかい眼差しがそそいできます。
         「能美さん、大丈夫ですよ。安心しんさいね。」 そう私に語りかけているようでした。
      そのやわらかい眼差しに包まれて、安心して二時間余りの手術を終えることができました。

  私たちは、どんなに不安であっても、どんなに貧しくとも、まわりにあたたかい眼差しがあれば生きていけます。苦悩をのりこえていけます。反対にどんなに物に恵まれていても、冷たい目、意地悪な目の中では生きていけません。
  いくら強がりを言っても、主体性のある生き方をすると言っても、私たちは人の目に負けてしまいます。冷たい目を意識していると、いつの間にか己も冷たい人間になっています。意地悪い目ばかり気にしていると、気づいてみると自分も意地悪い人間になっています。

 多くの人は、冷たい人の目の中で、負けるものか、負けるものか≠ニ頑張りながら、結局世間の目の中に埋没していくのです。

  「なもあみだぶつ」と如来のみ名をよぶことは、誰がどんな目で見ようが、あたたかい目で見てくださる如来さまがおられる…。お念仏申すとは、「まかせよ、安心せよ」と絶えずよびつづけてくださる、如来のあたたかい眼差しの中に身を置くことなのであります。
                                                  2005年12月22日

如来のまなざしの中で


  私たち浄土真宗の門徒にとって、何よりも大切に心がけなければならないのは、絶えず聴聞の場に座るということです。 どれほど立派な仏壇を安置しても、又どれほどご仏事を盛大に勤めても、お聴聞することがなかったら「名ばかりの門徒」になってしまいます。

 今は亡き浄光寺仏婦会員のYさんの言葉が思い出されます。法座に欠かさずお参りされるYさんに、ある時声をかけました。
   私   「よう参りんさったなぁ」
   Yさん「いやいやお寺に参れんような忙しい仕事はもっておりません。参れん云うたら言い訳に
              なりますけぇな。仕事なら明日に延ばすことはできるが、後生の一大事は待ってくれませ
              んけぇな…」

  この真実のみ教えにであうことがなかったら、私のいのちのふるさと「浄土」には往生することは出来ません。何をさておいても、お聴聞の場に座ることを優先させたいと思います。
                                                2005年12月21日
「なによりも大切に心がけなければならないこと」

今年は浄光寺門徒の有福の善太郎さんがご往生されて150年目の年にあたります。

 善太郎さんは、今から220年前、江戸時代末期に、父徳太郎・母キヨの長男として有福の農家に生を受けました。愛児四人を30歳から41歳の間に次々と失い、そのことが機縁となり、いのちがけで法を求めていかれました。

 善太郎さんが生きた時代は、天明・天保の大飢饉の真只中で、襲い来る自然災害や疫病が流行し、きびしい社会情勢が続いていました。そんな中、善太郎さんは熱心に法を求め聴聞を重ねられました。
 そしてついに、四十代半ばにして
    「○るで○るで  あみだにょらいがひきうけて  この善太郎」と、
苦しみ、喜び、悲しみ、楽しみ、一切のものから逃避せず、人生を力強く歩んでいかれ、仏法に照らされて生きる、念仏者「この善太郎」としての新しい人生が始まりました。

 善太郎さんは、生涯の内、九度も京都本願寺へ報恩感謝のお参りをしておられます。当時石見から京都への往復は難渋を極めたと想像されます。一介の農民で当時の交通事情を考えると、その情熱には驚嘆します。最後の参詣の帰路発病。翌安政3年(1856)2月8日、75歳の生涯を終えられました。

 念仏者善太郎さんの生きざまは、今なお私たちに、人間としての本来の生き方を教え続けてあります。まさに現代に要求さるる最も代表的な人間像と云えます。
                                                2005年9月10日

○るで○るで あみだにょらいが ひきうけて


今年の三月のことです。浄光寺のお世話をしておられる有福温泉町本明のYさんのお家の報恩講にお参りしました。 
 ご主人は外で待っておられて、車まで迎えに来てくださいました。法衣カバンをお供して家まで案内されると、縁側のところで奥さんが両手を合わし、「ご院家さんお念仏喜ばせてもらっています。ありがとうございます。」とにこにこして迎えて下さいました。
  高齢に加えて、足が不自由になられ、ここ2〜3年お寺にお参りしておられません。一緒に正信偈をお勤めし、ご法話に耳傾けてくださいました。 奥さんに代わってご主人がお茶を入れて下さいます。「ここも真宗、里も真宗、お念仏にであえて本当に良かった…。」とご夫婦笑顔で話されます。 
   帰り際に奥さんが、「こんな体になってお寺には参れませんが、お念仏を喜ばさせてもらっていますから。安心をいただいていますから。ご院家さん、大丈夫ですから…。」と満面笑顔。  
   私の安心だといつ壊れるか心配だけども、如来さまから安心を頂戴しているから、「ご院家さん大丈夫です」と手放しで喜んでおられました。

   本願寺の月刊誌「大乗」に、茨城県みやざきホスピタル理事長で、小児科医の宮崎幸枝さんがこんな記事を寄せておられます。(宮崎さんは、お念仏の医師として患者さんたちから親しまれている。)
  『人生いろいろ』という歌がありますが、私は二通りしかないと思っています。ひとつは、自分の常識で考え、自分に頼る人生。そしてもうひとつは、真実を聞き、真実に順っていく人生。人生は苦の連続ですが、真実に出遇う人生は、大きな安心の上の苦なのであります。この人生で遇うべきは仏法の縁。この肝心要の人生最大の目的をいただいてから生きる人生こそ、今が輝いて力を発揮できるのだと思います。

  お念仏の人生は、悲しみのまま、不安のまま、悩みをかかえているまま、決して壊れることのない如来さまの大安心に包まれている日暮しであります。           
                                                                    2005年7月12日

ご院家さん、如来さんから安心をいただいています。


 浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、1263(弘長2)年に90歳でご往生されました。
 2012(平成24)年116日は宗祖親鸞聖人の750回忌にあたります。本願寺では、5年後の平成234月より御正当の116日まで750回大遠忌法要が勤まります。
 ご生涯をかけて真実のみ教えを弘められた親鸞聖人のご遺徳を偲ばせていただくと共ともに、
50年に一度のご勝縁を是非皆でお迎えしたいと思います。

 本願寺のご門主さまが、あるときこんなご教辞をなさいました。
  「いよいよ宗門におきます大事なご法要、大遠忌が近づいて参りました。その円成に向けて
   努力することは大切なことでありますが、もう一つ、宗門人一人ひとりが、宗門について
   将来像、
10年先、20年先、宗門はどのようにありたいか、わがお寺はどのようになったら
   よいか、そういう具体的な姿、夢を描いていくことも大切ではないかと思います。」


 去る、96日に浄光寺において、福屋組「親鸞聖人750回大遠忌につい
ての消息」披露・記念法座が、組内各寺院より
150名の参加者を迎えて開
催されました。その折のはなしあいのテ−マを福屋組ではご門主さまの
ご教辞から頂き次のようにしました。

  「活気溢れる元気な寺をめざして具体的な姿・夢を描こう」
  “10年先、20年先、わが寺はこんなお寺でありたい、こんなお寺に
           したい、浄土真宗の門徒として私はこうありたい。”

このテーマで各寺の代表の方による意見発表やはなしあいをしたところ、門信徒や僧侶・寺族からさまざまな意見が出されました。その一部を紹介します。

     声かけ運動や誰でも気軽にお寺へ行ける雰囲気づくりをはかりたい。
      ・門信徒・僧侶・寺族ともに課題を共有し、お互いが支えあっていけるお寺でありたい。
      ・子供、若い人、働き盛りの人、お年寄りにとって、“お寺が最高の居場所”と言えるお寺づ
          くりをめざしたい。

      ・高齢化・過疎化・少子化に惑わされることなく、まず私自身が聞法し、積極的な声かけ同行
   でありたい。

   ・ 聴聞を大切にするお寺づくりをめざしたい。
      ・大遠忌法要には若い人をたくさん連れてお参りし、法灯を護りたい。  
                                                                           (無住寺院の門徒の意見)

      ・総代・仏婦・仏壮・僧侶・寺族各教化団体が連携をもって歩みをすすめると必ず開かれたお
          寺となる。それをめざしたい。

      ・“こうありたい”と思い続けることが大事であり、その輪を拡げていきたい。  etc.

過疎化・高齢化で不安材料が多い中、宗祖大遠忌に向けて、又10年先、20年先、将来に向かっての確かな歩みを、参加者一人ひとりと確認しあう場となりえたことが何よりの喜びです。
                                                                                                                      2006年9月18日

活気溢れる元気な寺をめざして

「親鸞聖人750回大遠忌についての消息」披露・記念法座を終えて