石州瓦 窯元 亀谷窯業  

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  石州本来待瓦 窯元

 



   「石州瓦のあれこれ」は、石州瓦工業組合のサイトをご覧ください



「石州瓦はなぜ赤いのか」

〜平成10年1月〜
浜田市立図書館、江津市立図書館、石州瓦工業組合などの協力による史料、
そして亡き亀谷博幸調べなどを基に家人がまとめたものです。


■はじめに


卒業論文では近世の瓦師として
大阪の寺島氏の文章をみた。
今回、落穂として浜田藩の冨島氏をみて、
寺島氏との比較検討を加えたい。

■石州瓦とは


 石州の青い海辺にたたずむ小さな漁村の赤い屋根、
緑の山陰にひっそりと静まりかえる農家の赤屋根、
それらが日の光に輝いて石見の風景を彩っている。

石見に住む若者には見慣れているこの赤い屋根も
旅する者にとっては石見を感じさせる珍しい風物の1つである。

 この石州瓦は江戸時代、石州和紙、石見丸物、
干鰯、長浜人形をならんで石見の特産品だった。

これら特産品は北前船によって諸国の人々の目にふれることになり、
ことに石州瓦は、いて(凍害)に強く、寒い地方では重宝されたとある。


■石州瓦の研究紹介

 石州瓦についての研究には主に次のようなものがある。

 1935年「石見赤瓦及び粗陶器の地理的研究」森信美。
これは昭和10年当時の石州瓦生産の現状と沿革について、
地理的な視点から書かれた本である。
石州瓦研究の先駆的な著作としてよく読まれている。

 1972年「石州瓦史」鶴田真秀。
これは浜田市や江津市に残る諸家の記録の中にある
瓦に関する記述を全て紹介し、石州瓦の歴史をさぐろうとする本である。
これにより、瓦葺禁止の事実や赤瓦の変遷の
時期をみることができる貴重な著作である。

 1976年「石州瓦はまじないの色」森本幸治。
これは、石州瓦が耐凍瓦を目的に赤くなったという説に疑問を唱え、
石州瓦は民俗学的に赤色に変化していったのだという考えを
論理的に説明する本である。
なるほど、と納得させられる興味深い著作である。

 1979年「我がふるさと 石州瓦のはじまりと伸びゆく浜田駅前」梨田精。
この本は町内の古老の活や旧家の過去帳をもとに
、よりリアルに瓦の歴史にせまっている。

  この他、論文内で石州瓦をとりあげたものもあるが、
まとまった著作はこの4冊であった。


■浜田城築城と富島吉右衛門

 1918年「石見家系録」(大島幾太郎著)の冨島の項に次のようにある。

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藤原性富島甚太郎(吉右衛門)は、元和5年、浜田亀山城築城の際、
古田侯の招きに応じ、瓦士の頭として大阪より来る。

浅井に34間四方の地を給ひて住せらしめらる。

元和8年浅井神社再建、願主、大阪住南都藤原朝臣富島吉右衛門家次。
万治2年吉田霊神合祠。
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 この冨島の項は何を元にして書かれたのか詳細ではないが、
これから、石州瓦の祖は富島吉右衛門であるという説が一般である。

  富島家は現在8代目富島正人氏がついでおられるが、
瓦業は4代目ヨタ助(明治26年歿)までで廃業になった。

 富島氏は浅井に土地を与えられた他に特権があったのだろうか。

江津市和木の小川家の文書によると、
12代藩主松平周防康定の頃、
寛政5年9月那賀郡久代村瓦師惣次から、
那賀郡浅井村の瓦屋六兵衛(2代富島庄六)に当てた
乍恐申上侯口上の覚がある。

「当村にて瓦士等&~場所があるので、恐多いことだが弟子に成され、
帳面付下されば、油瓦士として渡世したいので
御慈悲を似御免仰付らる様お願いする。」

  その後六兵衛は前書のとおり願出申し、
瓦屋根葺の御水没銀御上納仰付らる様に役人2人へ願出している。
これより、 富島氏は浜田地方の瓦師の元締として
営業権や瓦士養成の実権をにぎっていたことがわかる。

  御用瓦師の富島氏が浜田に土着し、
城のすぐ近くの窯場で瓦を焼くようになったことから、
裕福な者の中で瓦葺にするものも次第に増えた。
享保元年から文政4年までの間だけでも
9回の瓦葺の願いが浜田藩へだされている。

 しかし浜田藩は、残っている史料の中で享和元年と文政年間に、
瓦葺を禁止する達をだしている。

「茅・藁葺の多い中で、近来少しずつ瓦葺にする者が出てきたが、
古風を失うので、市街地以外は、これより新規の瓦葺を禁ずる。
もし瓦葺が必要ならば、子細を願い出て差図をうけるように」との内容である。

 この達によって、瓦葺の願いの文書が残っているのであろう。
その理由は、火災に強く水害時にも修理代が節約できるなどが挙げられている。

  この時期には、まだ石州瓦独特の赤い瓦ではなく、
全国によく見られるものと同じ黒い瓦であった。

藩としては、古風を失うというのはたてまえで、
城を葺いたのと同じ瓦で民家を葺かれては格式がなりたたない
ということで禁止したと思われる。
赤瓦が出現してからも禁じるのは黒瓦ばかりで
赤瓦はほったらかしであったことからも考えられる。


■赤い瓦のはじまり

 石州産の瓦と、石州瓦は区別して考えるべきであると思う。
石州産の瓦とは、石州瓦はもちろん、黒い瓦や、
後の洋瓦やセメント瓦にいたるまで、
あらゆる瓦を含んだ石州で生産している瓦のことである。

 浜田は海軍の進展により、
石州瓦生産と積み出し港として石州瓦の大中心となったことや、
浜田城瓦を焼いた富島氏が浜田で長年権威をもって瓦窯を続けたなどから、
明治以来、浜田の郷土史家によって、石州瓦の発祥地であるとされている。

  たしかに富島吉右衛門が石州産の瓦の起源であると思う。

 にしても現在でも、他地方の瓦と色、性質において
一線を画する石州瓦がどのようにして生まれたか考えることは、
石州瓦の歴史を考える上でとても大切だと思う。

 石州瓦はいてに強く、丈夫なことから耐凍瓦を目的に発明されたといわれるが、
森本幸治氏はそうではないと主張する。
浜田が古来それほど寒冷ではなく、温暖で、
古いいぶし瓦もいてずに残っていることなどを理由にしている。
必要のないものに生活の智恵はでないという意見に私も賛成だ。

  そして森本氏は石州瓦を作るのに必要な陶土である
都野津累層などに似た土や、その他原料も全国にあるのに、
なぜ石州でだけこのような赤い瓦が生まれたのかを考え、
その必然的理由に石見銀山の存在もあげ説明している。

天領の権威と、あらゆる技術の受け入れやすさ、
多大な需要、そして、つらい鉱山労働者の赤への呪術的信仰を理由として、
銀山近くの水上地方を石州瓦発祥の地と考えておられる。

 しかし私は、水上地方を発祥の地とするのは考えすぎのような気がする。
もともと都野津累層は石見地方に無尽蔵にあったもの、
目が粗く、磨きがうまくいかない為、いぶし瓦にはむかない。
しかし高温には強い。
普通の瓦では1000度以上の焼にかけるとまがってしまうが、
それに対し石州瓦は1300度で焼成する。
もちろん黒い、いぶし瓦の方を焼きたかったのだが、
土が粗いので、磨きにかわってつやをだすため、仕方なく釉薬がかけられた。
釉薬としては石見産の鉄からでるサビなども使われたが、
それよりも使い勝手がよく、つや、発色ともにすぐれた
出雲の来待石との出会いがあった。
石見の土と、出雲の釉薬との出会いがあって、
石州瓦が生まれたのだと考える。

出雲地方には都野津累層はない。

 石州瓦を焼くには平窯である必要はなく(いぶし瓦には必要)、
多室でしかも高温になる登り窯に窯は増加した。
城下の平窯だけであったのが、
生湯や長沢に登り窯ができだしたのは文化年間である。

 慶応4年には、御用瓦師であった幾石衛門が、
御用が絶え、 仕事がないので赤瓦にしたいという願いを出している。
このころには黒瓦の時代から赤瓦に需要が増したことがわかる。
石見でしかできない石州瓦は特産品として売れ行きが良かった。

 その石州瓦も、オートメーション化がされたトンネル窯では高温のため、
窯がだめになるので、大きな窯で大量生産できず。
今では小さな窯をもつ浜田の一社が生産しているのみとなっている。
石州産の瓦は江津を中心として生産されている。


■ 瓦株の譲渡先

 浜田市誌によると、
浅井村瓦師富島氏の技法は浜田地方の特殊の人々に伝えらられ、
やがて天保年間、その株を浅井村新所(森脇)と
生湯大吉屋(千代延)へ譲ったと記されている。
 
 瓦師富島氏は代々村の繁栄と我家の瓦製造の繁昌を祈願するための
願主となっているが、2代富島喜平次の時、
文化元年を最後に神社の修復を中止しているので文化2年以降、
天保年間にかけて株を他に譲渡し、瓦窯を廃業したと考えられる。

 文化3年には長沢村瓦師岩田源助へ、
次いで天保年間には浅井村瓦師新所勇平などへ
株を譲渡したことがわかっている。
(千代延には明治の末頃、新所から株が譲られた。)

■瓦師の出稼ぎ

 天保年間における浜田地方の瓦師は、
富島氏廃業以降は浅井村の新所勇平氏、長沢村の岩田源助氏
生湯村の古和氏、黒川村の幾石衛門氏など7人であったが、
その後石州瓦の評判が良くなり、県外移出など需要が増加するにつれて
瓦師の数も増え、幕末慶応の頃には瓦師頭首生湯村九石衛門の外、
原井組瓦師5人、跡市組8人、三隅組2人、計16人にして、跡市組が断然多かった。

 そして石州瓦の県外移出に伴い、
慶応3年から明治5年までの瓦師の県外への出稼ぎの願出が多かった。
出稼ぎ先は特に芸州(広島県)が多く、
次に作州(岡山県)、防州(山口県)方面である。

 出稼ぎ瓦師の出身地は浜田藩跡市組が大部分で、
その中には跡市村が多く、次に都野津村、和木村その他近村の順であることは、
当時跡市組における瓦師の普及と、
瓦師の人材養成が如何に盛んであったか興味深い。

■おわりに

大阪の寺島氏と浜田の冨島氏は同じ御用瓦師だが、
当然のことながらいくつもの相違点がある。
都市と田舎の差、これは人口の違いであり、
需要の違い、組織の違いでもある。
浜田藩では、瓦の材料の違い、品質改良があった。
そして残る記録の量も違った。

よって、両氏の比較検討はしがたいが、
浜田の瓦産業は今にうけつがれ、
大阪では瓦は生産されず代理店ばかりであるということは
瓦の普及と関係があるように思われる。
近世には瓦は需要地にて作られるものであった。
瓦は値段の割には重いので運賃がかかるのは
現在も同じだが、今は多くの業者が自社トラックで運び
カバーしている。よって需要地に窯を設ける必要ななくなり、
全国の需要を満たす瓦産地が瓦を大量に生産し
供給するようになった。

近世の都市で生きた寺島氏が、もし特権剥奪後も
生きのびたとしても、いずれ衰退するのは
必然であったことを改めて確かめた。



   
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