浄光寺−築地本願寺新報で紹介される
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妙好人 善太郎さん

やれうれしや≠フ泣き柱

泣き柱

  石見国(島根県西部)には妙好人と呼ばれる篤信な浄土真宗の信徒が数多く生まれています。その中に有福の善太郎さんがいます。善太郎さんは天明二(1782)年有福温泉の近くの農家に生まれ、75歳で往生されるまで聴聞に励み、念仏とともに生活をされました。善太郎さんの行実は幕末に編纂された「妙好人伝」で紹介されていますが、一般の人々に広く知られるようになった契機は、妙好人を高く評価された鈴木大拙博士が著書「妙好人」の付録として管真義師によって編纂された「有福の善太郎」を収録されたことによります。

 石見国には、浄土真宗の信仰に深く根ざした土壌(土徳)がありました。また善太郎さんが生まれる10数年前に、石見地方に異安心事件(一如秘事)が起きています。本山は学林(龍谷大学の前身)で宗学を研鑽した仰誓師を派遣し、この異安心事件に当たらせました。このことをご縁に、仰誓師は石見市木の浄泉寺に入寺され住職を務められます。浄泉寺に入られた仰誓師は寺に私塾を創り、この地域の僧侶や門徒を教化されました。
 仰誓師の学問の系統は石州学派とよばれその門下から後に学僧として名を残す優秀な人材が多く育てられました。
 仰誓師は「真宗律」と呼ばれるほど自らを律して日常を過ごされたといいます。師の息男で本願寺の勧楽を勤められた履善師は「朝夕の勤行怠るべからず、旅行の時も必ず朝勤めして後発足すべし、帰らば必ずお勤めして後に臥すべし。実成院の毎夜臨臥御暇乞とて今一度五尊を礼拝に詣で玉えり」と仰誓師の生活を記しています。この仰誓、履善両和上は度々善太郎さんが住んだ有福へもご教化にこられ、善太郎さんもご教化を受けておられます。

  後に妙好人と呼ばれるようになる善太郎さんですが、若い時は「毛虫の悪太郎」と村の人々から呼ばれるほど荒れた生活を送っていたようです。しかし、4人の子供を次々と幼くして亡くしたことが機縁となり、40歳を過ぎた頃から、手次寺である千田の浄光寺や、自宅近くの光現寺のご法座に参るようになったと言い伝えられています。浄光寺の住職詳応師また光現寺の住職労謙師も大変学徳ともに厚い方だったといいます。この両師のご教化が大きく善太郎さんを育てていきました。
 本山より使僧が浜田の寺に来られた時、善太郎さんは知り合いの同行のお宅に泊まりご聴聞されたそうですが、ご法座の最後の日の朝に善太郎さんが帰ると言い出したので、同行が「今日一日だけ聴聞して帰られよ」と勧めると、「光現寺にも法座がありますから帰ります」と言うので「ご講師は誰か」と尋ねると「手前の御院主さんです」と言うので「御院主さんの説法なら、いつでも聞かれる。御使僧さんのは滅多に聞かれませんぞ」と言うと、「イヤイヤ、浜田あたりまでも参詣させていただくようにお育てを蒙ったのは全く御院主さんのお陰ですから」と言って、帰ったという逸話があるほどです。

 手次寺である浄光寺の本堂の柱には「泣き柱」と書いた木札が立てられています。善太郎さんが50歳の時、本堂が再建されますが、善太郎さんは「阿弥陀様がどうぞお願いだから御法を聞いておくれよと、この善太郎一人のためにおみ堂を建ててくださいました やれ嬉しや」と言って歓び涙を流されたといいます。
 その浄光寺には、善太郎さんが残された文や日常用いられたご和讃などが展示されています。そのほとんどの文の前か後に「この善太郎」と書いておられます。自らが拝読し聴聞したみ教えを、我が一人のこととして受け止めていかれたのです。親鸞聖人は「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなり」とお弟子に話されていますが、まさに善太郎さんはその世界を生きておられたのです。善太郎さんは「おがんで たすけて もらうじゃない おがまれて下さる 如来さま」「むこうから 思われて 思いとられるこの 善太郎」と謡っておられますが、如来さまの心を我が身に受けて行かれた善太郎さんの姿が目に浮かびます。

土徳

毛虫の悪太郎

泣き柱

「築地本願寺新報」 2005年3月号に掲載される。 (2004年11月26日に取材を受ける)

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