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 浄光寺・東京築地本願寺新報で紹介される。……全文紹介  
 浄光寺・本願寺月刊誌(大乗)で全国に紹介される。……全文紹介
  善太郎さんパネル展の開催 
善太郎さんの銅像

善太郎さんの法語や手記・遺品
などの展示コ−ナ−
    (60数点あります)

「おがんで たすけて
もらうじゃない おが
まれてくださる にょ
らいさまに たすけら
れて まいること
 こちらからおもうて 
たすけてもらうじゃ
ない むこうからお
もわれて おもいと
らるゝこと 
    この善太郎」
善太郎さん肖像画
善太郎さんの泣き柱

善太郎さんの生涯

  天明2年(1782)10月、現在の島根県浜田市下有福町の農家に生まれる。江津市千田町浄光寺の門徒である。
   4歳で母キヨと死別したことからか、若い頃は暗くすさんだ日々を送り、酒・博打・喧嘩に明け暮れ、村人からは「毛虫の悪太郎」と嫌われ相手にされなかった。
   善太郎30〜41才の間に、愛児4人を次々と失うという深い悲しみに出会う。そのことが機縁となり、40代半ば頃よりいのちがけで法を求める。
   近郷近在の諸師のお育てにより、仏法に照らされて生きる、念仏者「この善太郎」としての新しい人生が始まる。
  生涯の内、九度も京都本願寺へ報恩感謝のお参りをしている。当時石見から京都への往復は難渋を極めたと想像される。浄光寺第12代住職福応師に連れられ最後の参詣の帰路発病。翌安政3年(1856)2月8日、75才の生涯を終える。 
   悲しみ、喜び、苦しみ、一切のものから逃避せず「この善太郎」と受けとめて、かみしめかみしめご法義をよろこんでいった善太郎こそ、まさに現代に要求さるる最も代表的な人間像である。
  善太郎さんの法悦の言葉に
      「やれやれうれしや有難や
        生々世々の初事に
        わたしゃ全体悪太郎で
        あるけども
        おかげでこの善太郎と
        いうてもらう
        やれうれしや この善太郎」
 毎日の当たり前のことにも「生々世々の初事」と、善太郎さんは「初事」
「はつごと」と一息一息に、「うれしうてならぬ」「尊うてならぬ」と悦びを表
現している。
  現在の九間四面の浄光寺の本堂が、四ケ年の歳月を費やして新築再
建され、その慶讃法要が天保3年(1832)4月に盛大に厳修された。その
折、お参りしていた善太郎さんは、
  「この善太郎 仏とも法とも知らずして 逃げて逃げて逃げ廻っている
   この善太郎がために 師匠寺のおみどうを この善太郎がために
   おみのりを聞けよと建てて下さいました やれうれしや なむあみだ
   ぶつ  この善太郎」
と、柱に抱きつき、嬉し泣きに泣いた。





妙好人善太郎同行

  経に、念仏一筋に生きぬいた信心の人を、「上上人・好人・妙好人・最勝人・稀有人」とほめたたえられてある。
   山陰特に石見地方には、妙好人とたたえられ親しまれてきた方が数多くいる。鈴木大拙氏は、その著「妙好人」の中で、「石見国は妙好人のよく出るところと見える」 と述べている。
  恵まれない自然の中にも温柔な人柄。山間の農林業、海岸の水産業でわずかに生活を支え、そして文化に遠い土地柄。そのような人間性と厳しい生活環境が、お念仏のみ教えを吸い込んでゆく、よき土壌となったのだろうか。
  仰誓・履善両和上の手になった「妙好人伝」の中には、石見生まれの人が10人もいる。この事からも明らかなように、仰誓・履善和上をはじめ、そのすぐれた門弟や、近隣各寺の熱心な住職により、石見の法田はあたたかく耕され、妙好人が次々と生れ出づる土壌をつくっていったのである。
  このような念仏者の生きざまが土徳となり、今なおこの地域の多くの人々に、人間としての本来の生き方を教え続けてくれている。
念仏一筋に生きぬいた信心の人